「ふるさと創生 きさんのさと」の小冊子について
約20年前の平成2年1月(1990年)に発刊された、この小冊子は当時の「岐山地区コミュニティ推進
協議会」の方々により編集され「岐山地区の史跡など」が記述された貴重な郷土資料です。
当時の方が開発などにより消失してゆく史跡などを後世に伝えるために、郷土資料、地区民から
の提供資料、聞き出し情報などをもとにして多大なる工数をつかって編集・発刊された足跡が
この資料を熟読することによりうかがえます....
※ この小冊子は公的機関としては「中央図書館」の郷土資料コーナーで所蔵されています
(館内でのみ閲覧が可能)
また、この小冊子のCD-ROM版が制作され岐山公民館に納められています
そこで、本稿ではこの小冊子の一部をご紹介します..........
岐山の地名の由来は?........
岐山は中国の鳳翔府にあり、周の王室ができたとき、鳳凰が鳴いたといわれ、
鳳凰はたいへんよい時代に現れるめでたい鳥とされ、この周の時代は、儒学の教えを指標とし、
仁・義・礼・智・信の五つの徳が実現された、よい時代といいます。
天明5年(1785年)徳山藩校が造られるとき、7代藩主就馴から奈古屋蔵人を通して福岡の儒学者
亀井南冥に、館名を選び決めるように頼まれた。
中国の最も古い詩集の中に「鳳凰は鳴く、彼の高き岡に梧桐は生ず」という句がある。これは名君
として周の文王の徳をたたえ、世の太平を褒めはやしたもので、この詩の「鳳凰は鳴く」の文字から
鳴鳳と名付けられた。
「岐山」の名は、周防の国の周と中国の周が同じであり、徳山の城山を中国の岐山とみなし、
鳴鳳とともに周のよい時代が徳山藩に訪れるようにとの願いをこめて付けられた。
徳山四国八十八ケ所とは?.......
四国八十八ケ所とは、四国にある弘法大師空海が開いたといわれる霊場八十八ケ所をいう。
創設は弘仁6年(815年)弘法大師42歳のころといわれ、これを巡拝することを四国遍路といい、
文化・文政年間(1804年〜 1829年)ごろが巡拝者が最も多くおびただしい人数であったようである。
当時、四国遍路するには、今の海外旅行をするぐらい回数と経費がかかったので、
四国八十八ケ所をもした地方霊場が多く祭られるようになり、秋穂、桑ノ山の霊場が
天明期(1780年代)に勧請され、その他は天保期以降の江戸後期から明治にかけて
多く勧請されている。
徳山四国八十八ケ所は、霊場由来記によると、遠石千日寺丘に勧請したが、のちに
無量寺(徳山駅前旧佐渡町)に移設し、明治になって浅田善七氏・不破勝益平氏らが
徳山近在に勧請配置したものである。
徳山四国八十八ケ所を勧請した時期は、高尾山中腹にある三社権現の裏面に彫ってある文に、
四国霊場を天保6年(1835年)に千日山へ勧請安置し、嘉永2年(1849年)に無量寺へ移設した
とあり、徳山市内に配置した時期は、明治16年〜明治18年ごろといわれている。
浅田善七氏・不破勝益平氏はともに文政3年に辻町で生まれ、家も近く幼なじみだったようであり、
浅田氏は浅回善司氏の先祖で徳山村初代村会議員を明治10年〜 17年ごろまで勤め、20年に
67歳で没し、不破勝氏は徳山大学前学長不破勝敏夫氏の先祖で、小学校の教員を明治14年ごろ
まで奉職していた。
発願の趣旨は、第一に信仰、第二は巡拝により健康の保持と親睦を深めることにあつたと
言われている。徳山四国八十八ケ所札所を市内に配置するには、土地所有者の承諸が必要であり、
費用調達の問題もあるが、浅田氏、不破勝氏らの信仰心と人望により、多数の方々の協力を得て
配置の大事業がなし遂げられた。
八十八ケ所札所(岐山地区) の リスト(画像 PDF文書)
八十八ケ所札所(岐山地区) の マップ(画像 PDF文書)
岐山音頭と踊り
昭和61年に岐山音頭が作成され、踊りの振付けもされて岐山祭りなどで接することができる
小冊子の目次(PDF文書) と 表紙・編集後記 当時の様子
※ また、この冊子には「ふるさと探訪マップ」に関しての記述もあり、当時は
岐山小学校の児童数も多い時代でウォークラリーが開催されていました。
現在は毎年、2月には「ふるさと探訪ウォーキング」が開催され、昨年は
「周南市文化会館・常祷院など」、今年は「KRY、動物園」の探訪を実施し、
先人達のふるさとへの思いを脈々と引き継いでいます..........
2009.04.06