大神板碑
  市指定文化財・富田
大神板碑    平野石といわれる安山岩の厚みのある板状の自然石にやや加工し、平滑な面を正面とします。
 銘文から応安3年(1370)、念阿の供養のために建立されたものであることが分かります。
 県下の地蔵板碑の中では早い時期のものとして貴重です。
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木造薬師如来立像(河内町)
  市指定文化財・富田
木造薬師如来立像(河内町)    像高は99.6センチメートルのヒノキ材の一本造りで、藤原期の像にならった鎌倉期の製作かとも思われますが、鎌倉時代前期を下るものではないとみられます。本像は丸彫り特有のがっしりとした量感があり、切子型の螺髪を後頭部まできちんと彫出するなど、その調法は丁寧です。地方作ながらまとまりよい優作です。
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木造阿弥陀如来立像(浄真寺)
  市指定文化財・富田
木造阿弥陀如来立像(浄真寺)    藤原時代末期の特色が見られるヒノキ材の一本造りの像で、その作域は素朴な地方作でする。宝永2年(1705)の修理銘も地方史料として重要です。
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浄真寺板碑
  市指定文化財・富田
浄真寺板碑    平野石といわれた安山岩の板状の自然石を彫成し、平滑に磨いた正面に中央の蓮華の中房にアーク(胎蔵界大日如来の種子)を置き、周囲の八葉蓮弁中に四如来四菩薩を置く胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の梵字が刻まれています。願意の院刻から、碑は僧覚円が過去の尊霊の極楽往生を祈って建立したことがわかります。
 薬研彫りされた梵字の書法は、古風で風格があり、丸みのある連弁は二重線で表現され、その制作は鎌倉時代の中期に近い頃と思われます。
 胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の梵字を刻む板碑は、県下で唯一のものであり、当時のこの地方の信仰を知る貴重なものです。
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浄真寺五輪塔
  市指定文化財・富田
浄真寺五輪塔    一つの平野石の岩塊から掘り出した高さ79センチの五輪塔です。その成形は古風で、制作は鎌倉時代中期頃と考えられます。
 この様に古い時代の一石の五輪塔は、県内ではその例が発見されておらず貴重なものです。
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建咲院什物
    県指定文化財・富田
建咲院什物    墨書などから永禄3年(1560年)に毛利元就から建咲院の隆室知丘に寄進されたと伝えられるもので、九条袈裟、血脈袋、坐具。付指定・念珠、香合、瓢形水晶の6点。
 九条袈裟、血脈袋、坐具はいずれも中国製の織物で保存状態も良く、室町時代後半の染織品の仏具として、全国的にも貴重なものです。
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木造聖観世音菩薩立像(建咲院)
    市指定文化財・富田
木造聖観世音菩薩立像(建咲院)    像高113.0cmのヒノキ材の寄木造りの像で、もとは富田山浄宝寺の本尊でした。豊かな円相の中にもひきしまった面貌、条帛や裳の衣文線の彫法などには鎌倉期の特色が見られます。地方作ではあるが、この地方の信仰と密着した由緒の古い仏像として評価されます。
 秘仏で、亥の年(13年目ごと)の開帳が古くからのきまりといいます。
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建咲院板碑
    市指定文化財・富田
建咲院板碑    正安2年(1300)鎌倉時代後期の板碑で、県下在銘の板碑の中で6番目に古いものである。上方に行くに従って狭くなり、やや尖った感じの変則的な六角形をする自然石で、部厚く量感のある堂々とした格調の高い板碑です。
 極楽往生を願って建てた供養塔であると思われます。
 鎌倉時代のこの地方の信仰の様子をうかがえる貴重な資料です。
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建咲院文書 
    市指定文化財・富田 
建咲院文書    永禄2年(1559)から近世初期にかけて、毛利氏が建咲院に宛てた文書などです。陶氏菩提寺であった建咲院への毛利氏の対応を示すもので、毛利氏の宗教政策の一端を示す史料として重要です。
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陶興房の墓(建咲院)
    富田
陶興房の墓(建咲寺)    文明14年(1482)に大内館において吉見信頼に刺殺された父弘護と、母益田氏の冥福を祈るため、大悦薫童和尚を請して建咲院を建立しました。
 この寺号は、父と母の法名の頭文字「建」と「咲」から得たもので、両親を思う至情がよくあらわれています。
 興房は天文8年(1539)に死去しました。
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四熊家住宅主屋・診療棟
    登録有形文化財・富田
四熊家住宅主家・診療棟    主屋は江戸後期の木造建築で、県内有数の大きな茅葺き屋根を持っています。診療棟は明治後期の建築で、控えめながら洋風の意匠が施されています。
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旧日下医院本館・別館・正門及び塀 
    登録有形文化財・富田
旧日下医院本館・別館・正門及び塀    昭和3年(1928)に建てられた、元病院。車寄せや建物の上部に意匠を凝らし、壁に柱型のデザインを施すほか幾何学的な装飾があります。別館や正門及び塀も統一的な意匠で、本館と一体的な景観を示しています。
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銅造鰐口
    市指定文化財・富田 
銅造鰐口    鼓面の径26.0cmの中型の鰐口。慶長13年(1608)に金光寺の鰐口として鋳造されたものです。
技法的に中世から近世への過程を示すものとして注目すべきものです。
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連歌懐紙(山ア八幡宮)
    市指定文化財・富田 
連歌懐紙(山ア八幡宮)    現存する連歌懐紙は延宝9年(1681)から明治5年までの62帳である。また重硯は、宝暦8年(1758)に徳山藩家臣の飯田正雨が寄進したものです。
 近世中期の懐紙は失われているが、連歌興行の際の用具として寄進された重硯とともに伝えられ、近世を通じて興行されてきたことを示す点は貴重な例であり、近世防長文芸研究資料としても重要です。
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山ア八幡宮の本山神事
    県指定文化財・富田 
山ア八幡宮の本山神事    9月第4土・日曜に行われる秋季例大祭(本山神事)は、元禄15年(1702)から続いています。
 徳山藩3代藩主の毛利元次が、五穀豊穣を祈願して、馬場を新設するとともにその年の秋祭りから祈願神事として山車を奉納したことに始まります。
 五穀豊穣祈願のため奉納された、大きな山車と小さな2つの山車を爺山婆山といい、本山(ほんやま)神事といわれました。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成19年1月号(No.17)p2〜3「山崎八幡宮」pdf
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 山ア八幡宮本山神事山車
    市指定文化財・富田 
山ア八幡宮本山神事山車    本山は、釘を一本も使わずに約120貫(450kg)の蔓で丸太を結び、車輪も松の木の輪切りを使用して組み立てられているのが特徴です。
 本山は境内の急な坂を引き上げられ儀式の後に落とされ、その傾きによってその年の豊作を占います。
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勝栄寺土塁及び旧境内
    県指定文化財・富田 
勝栄寺土塁及び旧境内     南北朝時代の創建で、開基は陶弘政といわれている。寺回りに大土手があり、その外側に濠の遺構があるのは、毛利元就が在陣したときのものです。
 創建以来、江戸時代を通じて時宗の道場として栄えたが、明治維新後、故あって浄土宗に改宗しました。
 この寺で毛利元就が、隆元・元春・隆景にあて教訓状(三矢の訓)を認めたといわれています。
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勝栄寺板碑
    市指定文化財・富田 
勝栄寺板碑    延徳3年(1491)に供養塔として建立されたものと思われる。室町時代には士庶の阿弥陀浄土への信仰がかなり一般化し、そのあらわれと見られます。
 正面の中央部に蓮華座上の梵字(阿弥陀如来の種子・キリーク)が彫られています。
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山口県竹島古墳出土品
    国指定文化財・富田 
山口県竹島古墳出土品    4世紀前半に作られた県内最古の前方後円墳から出土した銅鏡をはじめとする一括の副葬品です。
銅鏡の1枚には魏の年号である「正始元年」銘があり、同じ鋳型で作られた鏡が各地で見つかるなど、古代史を考える上で非常に重要なものです。
 新南陽民俗資料展示室でレプリカを展示しています。

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○目でみる徳山の歴史 改訂版
 (制作:「目でみる徳山の歴史」改訂版出版実行委員会)
  「竹島御家老屋敷古墳」pdf
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おまつの墓
    富田
おまつの墓    道元開作工事の際、潮の流れの強さに潮止めの工事が難航しました。その時、おまつという娘が人柱となって命をささげ、完成をみたと伝えられています。 
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永源山北古墳
    富田
永源山北古墳   ●1号古墳
 棺は板石を箱型に組み合わせた「箱式石棺」。石材は平野石です。内部には20才代の女性の骨がほぼ完全な状態で遺っていました。
 副葬品は濃い緑色をした碧玉でつくられた管玉が3個ありました。
 5世紀前半の豪族の姫君だったと思われます。

●3号古墳
 墳丘の低い小型の円墳。内部には箱式石棺。棺のなかには頭蓋骨だけが遺っていました。
 副葬品は棺の右外に刀1・剣1・鉄のやじり8が置かれていました。
 5世紀の古墳であることがわかります。
 箱式石棺は、弥生時代から山口地方独特の埋葬施設として普及し、古墳時代もなおこのようにひきつづき使われています。

●4号古墳
 現在永源山一帯に残っている古墳のなかで、もとの姿を一番よく知ることができるのが、この4号墳です。
 墓としての聖域を区画するために、尾根につづく側に幅3mの堀割りを設け、そのむこうに径18m、高さ2.5mの円形の塚を築いています。
 4号古墳を発掘した結果、古墳の内部に死者を埋葬した形跡が認められませんでした。
 「埋葬されるべき主人のいない古墳」これはとても珍しい例です。
 この古墳が完成したとき、墳丘上で祭をとり行っています。その時に供えた壺がありました。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成18年5月号(No.13)p2〜3「永源山公園」pdf
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青木健作文学碑(永源山)
    富田
青木健作文学碑(永源山)    周南市(新南陽)に生まれた青木健作は、東大を卒業後、明治末年から大正時代にかけ、新進作家として活躍しました。その愛郷の心情を底流とした詩情豊かな作風は、近代文学史上高く評価されており、夏目漱石は彼の代表作である「虻」(明治43年)について「名声ある大家の作に比べて遜色のないもの、あるいはある意味からいって、それより優れている」(東京朝日)と賞賛しています。
 健作の作品は約40編あり、そのほとんどが周南市や山口県を舞台としたものです。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成18年5月号(No.13)p2〜3「永源山公園」pdf
  平成21年夏号(No.27)「青木健作」pdf
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山崎隊墓所(永源山)
    富田
山崎隊墓所(永源山)    富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
 山崎隊は、慶応元年(1865)に徳山藩が農・町民の有志150人(のち230人)によって編成しました。当初は、富田村庄屋の岩崎庄左衛門を賄方として「富田隊」として創設され、新町の浄真寺に陣が置かれました。
 慶応2年(1866)の四境戦争では、主に徳山周辺の防衛を務め、翌年には小倉城防備にあたり、さらに京に進んで鳥羽・伏見の戦いに、明治元年(1868)には、秋田に上陸したのち北海道での戦闘に参加しました。明治3年(1870)の脱退兵鎮圧まで徳山藩の主力として戦いましたが、明治4年(1871)、徳山藩が山口藩と合併する際に解散しました。

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  平成18年5月号(No.13)p2〜3「永源山公園」pdf
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山陽道の道標
    富田
山陽道の道標    山陽道(中国路)はいわゆる「五街道」に次ぐ重要街道として、江戸時代に瀬戸内海の海上交通とならび、大坂と九州を結ぶ重要な陸上幹線として利用されました。要所には宿場が栄え、参勤する諸大名だけでなく、多くの人々や物資が行き交いました。
 山ア八幡宮の参道と山陽道の交差点に道標がたっており、「右上かたみち 左下のせきみち」と刻まれています。
 華厳寺近くにも道標があり、「是より右下せき道」「是より左上かた道」と刻まれています。
 現在の政所交差点付近にあったもので山陽道と鹿野方面へ向かう道との分岐点にあったともいわれています。
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中山三屋墓碑
    富田
中山三屋墓碑    三屋は天保11年(1840)、都濃郡加見村中山出身の戸倉泰輔を父に、室谷氏民子を母として京都に生まれました。若くして仏弟子となりましたが、常に和歌を通じて諸国の文人や山県有朋ら勤王の志士と交わり、維新回天の業にも活躍したといわれています。明治4年(1871)32歳で没しました。
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野村開作の石柱
    富田
野村開作の石柱    新田の開発は、藩の財政を豊かにするもので、徳山藩としても積極的に奨励しました。それには多大の出費を伴い、かつ土木技術の進歩が要求されたにもかかわらず、藩直営の開作は13件中、天保年間の2件に過ぎず、他はすべて住民の自力による開作でした。
 その地方の有力者、資本家等が、企業として藩の許可をうけ、自力で築立し完成したものです。
 野村開作は安永元年(1772)2月の築立で、徳山の野村茂衛門の力によってでき上がったものです。南陽町における、最も面積の広い開作です。
 徳山町の野村家は、藩政時代には町民でしたが、藩に対しては経済的に一支援者でした。藩庁の信用も厚く、代々町年寄格で重きをなしていました。しかし、藩から御用金の借用を命じられた時、それを断ったため親子が罰せられ、父は野島、息子の茂衛門は大津島へ島流しとなりました。その後許されましたが、茂衛門は「お金を持っていたから罰を受けた。お金を海へ投資して失敗すればそれまでのこと、もし万一成功したら家名を挙げ、子孫に財産を残すことになる。」と思い開作の築き立てを決心したといいます。
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景清護身観音道標
    富田
景清護身観音道標    文政11年(1828)に中村卯兵衛によって建立された「当国十八番 景清護身観音」の道標。禅宗萬福寺(現川崎観音)へ到る参道の道標でした。
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周南市の史跡を訪ねて
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