四熊板碑
  市指定文化財・徳山
四熊板碑    縦長の自然石の中心部を浅く掘り込み、ここに地蔵菩薩の立像を薄肉彫りにあらわしています。
 応安7年(1374)9月16日に民衆の願をこめて、この板碑が造立せられたことが分かります。
 板碑形式の地蔵菩薩像としては、県下でも最も早い時期のものであり、かつ石造美術としてもなかなかの雄作です。また南北朝時代のこの地方の庶民信仰をうかがう例証としても歴史的価値が高いといえます。

銘文
右:右□巳上八百十七人
左:應安七年甲刁九月十六日
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上年五輪塔
  市指定文化財・徳山
上年五輪塔    安山岩製で、総高160センチメートルをはかる大型です。
空・風輪は一石、火・水・地輪はそれぞれ別石から彫成して積み上げています。水輪に「嘉元ゝ年(1303)12月19日」と刻まれています。年号の年次が「元年」である場合、「ゝ」で元をあらわす例は鎌倉時代にその例が少なくありません。14世紀初頭の紀年銘を有する県下有数の五輪塔として貴重です。
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岩屋寺笠塔婆
  市指定文化財・徳山
岩屋寺笠塔婆    貞和3年(1347年)につくられた笠塔婆で、高さ1.48メートルに及ぶ供養塔の一種です。
 各面に梵字や地蔵菩薩の図像、法華経、観無量寿経の偈文が刻まれており、さらに地蔵図像は形が美しく、南北朝時代初期の石造美術の最盛期につくられた遺品として貴重なものです。
 建立された理由はさだかではありませんが、この地の仏教を信仰する人々が、存命中は安穏に、死したる後には善き所に生まれることを願って建立したものと考えられます。
 この笠塔婆は、岩屋の墳墓地(通称丸山墓地)で発見されたものを本寺に移転復元したものです。
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木造聖観音菩薩立像(岩屋寺)
  市指定文化財・徳山
木造聖観音菩薩立像(岩屋寺)    鎌倉時代中期から後期にかけての制作と見られるヒノキ材の寄せ木造りの彫像です。秘仏で、巳歳ごとの開帳が古来からの定まりです。
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金銅柄香炉(岩屋寺)
  市指定文化財・徳山
金銅柄香炉(岩屋寺)    金銅造(銅や青銅に金メッキする技法)の柄をつけた香炉です。
真言密教で礼拝するときに用います。ふたには蓮華唐草文様がめぐらされるなど、造作は極めて丁寧です。
 柄の裏に「後藤宗福」「永禄二年卯月廿八(にじゅうはち)日」と彫られ、製作者や製作年がはっきりとわかる貴重なものです。
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木造大日如来坐像(蓮宅寺)
    市指定文化財・徳山
木造大日如来坐像(蓮宅寺)    本像は胸の前に左拳を握って人指し指を立て、それを右手で握る、いわゆる智拳印を結ぶ金剛界大日如来で、別所の小堂(大日堂)から移されたとの伝承があります。
 構造はクス材の一木造りで、制作は藤原時代後期から鎌倉時代の初め頃。膝前の浅い流麗な衣文線など、藤原時代末期の特色が顕著です。
 県内においては、金剛界大日如来の作例は珍しく、この地方の密教の流布をもうかがい知ることのできる貴重なものです。
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杉元相父子の墓所(興元寺)
    市指定文化財・徳山
杉元相父子の墓所(興元寺)    この宝篋印塔は中世末期野上(ほぼ旧市内の範囲)の領主であった杉元相、元宣父子の墓です。
 杉氏は大内氏に代々仕えた家臣で、陶氏滅亡後、毛利氏に帰順し弘治3年(1557年)から天正17年(1589年)までこの地を治めていました。
 この塔は本市に関係ある領主の墓として確認できるものとしては最も古く、また近世初頭の宝篋印塔の様式をもよく保ち、本市の歴史を知る上で大切なものです。
 なお興元寺は元相が菩提寺として建立したもので、その後杉氏の追善供養をつづけているお寺です。
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興元寺のイチョウ
    市指定文化財・徳山
興元寺のイチョウ   幹の太さ
 根廻り 5.60m
 目通り 4.76m
木の高さ(樹高)38.0m
 イチョウには雄の木と雌の木があり、冬には葉が枯れておちます。
種子は「ぎんなん」といって食べられます。
 興元寺のイチョウは、雌の木で樹勢は旺盛です。旧徳山市内では最大で、山口県内でも有数の巨樹なので、幹には数個の小さい「ちち」といわれる気根が垂れています。
 「徳山百樹」で紹介されている樹木のひとつでもあります。
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金梨子地菊桐紋散雲蒔絵鞍・鐙(周南市美術博物館)
    県指定文化財・徳山
金梨子地菊桐紋散雲蒔絵鞍・鐙    徳山毛利家に伝来する鞍と鐙で、徳山藩祖就隆の父毛利輝元が、豊臣秀吉から拝領したものと伝えられています。表面に梨の実の皮に似せて金粉を散らし、菊と桐、棚引雲を配した蒔絵で装飾されています。
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旧藩作事方跡(周南市美術博物館付近)
    徳山 
旧藩作事方跡(周南市美術博物館付近)     徳山藩の作事方のあった所です。江戸幕府には作事奉行があり、大工頭・作事方吟味役・手大工などを率いて幕府の建築工事いっさいを担当していました。
 萩蕃にも作事奉行があって、作事方・材木方・鍛冶方・絵図方・高札方などを率いて藩の工事に従事していました。
 徳山藩は江戸幕府や萩蕃と同じように、藩の創設当初から作事方奉行を置き、作事方細工人などを率いて、徳山藩の館邸や、その外諸臣の邸宅を管理していました。
 徳山藩では寛文3年(1663)9月18日に「作事方万御定」を制定し、改易後の享保7年(1722)に作事方・武具方をはじめ諸役所が、このあたりに再建されました。
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旧藩武方跡(周南市美術博物館付近)
    徳山
旧藩武方跡(周南市美術博物館付近)    徳山藩の武方のあったところです。武方とは、武具方のことで、武具一切を管理していた役所です。
 萩の宗藩には、武具保管役の首班として御武具方頭人がおり、極めて重要な職の一つでした。
 徳山藩も宗藩にならって、藩創設当初から武具方奉行がおかれ、そのもとに武具方都合役・武具方下僚がいて、さらにその下に士分に準ずる階級である10数名の細工人がいました。細工人は禄高13石~25石で甲冑・弓矢・刀槍・銃砲等の各種の工芸技術を業としていました。
 この武具方の筋向かいには作事方があり、この付近一帯は藩の仕事をする重要な機関のあったことろです。
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木造如意輪観音菩薩輪王坐像(福田寺)
    市指定文化財・徳山
木造如意輪観音菩薩輪王坐像(福田寺)    制作は南北朝期に入るものと思われるヒノキ材の寄せ木造りの像です。寺伝では、もとは興元寺の観音平に安置されていましたが、瀬戸内海を航行する船舶が観音堂の火を見て、心やましいものは方向を間違えました。そこで福田寺原の現在地に移してまつったといいます。
 秘仏で、開帳は古来、辰年の辰の日と定められていて、厳重に守られてきたといいます。
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銅造阿弥陀如来立像(八正寺)
    市指定文化財・徳山
銅造阿弥陀如来立像(八正寺)    八正寺。鎌倉時代に造られた善光寺式三尊の阿弥陀如来像です。鋳造のこの像は、もとは両脇に観音菩薩像と勢至菩薩像があって、それを本尊の後方につけられた舟形の光背が包んでいました。作者は不明です。
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徳山毛利家墓所
    市指定文化財・徳山
徳山毛利家墓所    徳山藩祖の毛利就隆は、延宝2年(1674)に京都妙心寺の竺印和尚を招請して大成寺中興開山とし、ここを菩提所としました。この墓所には、就隆以下9代までの歴代藩主及びその妻子の墓などが建立されています。
 就隆の墓は高さが約4mあり、方形造りの唐破風付きの本瓦葺き屋根の覆屋で囲まれた中に墓が安置されています。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成21年冬号(No.29)p2~3「徳山毛利家墓所」pdf
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周南市市長公舎洋館・和館
  国登録有形文化財・徳山
周南市市長公舎洋館・和館     大正15年(1926)に建てられた、もと徳山海軍燃料廠長官舎です。
洋館は大きな切妻屋根が印象的で穏やかな外観です。和館は10畳の座敷などがある良質な和風住宅となっています。
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銅造洪鐘(遠石八幡宮)
    市指定文化財・徳山 
銅造洪鐘(遠石八幡宮)    形は茸状で鎌倉期の特徴を示します。
八幡宮に古くからあった梵鐘が、元暦の戦いの流れ矢が当たって傷み、新しい鐘に造り直しました。しかし、新しい鐘の鐘声が思わしくなかったため、元応2年(1320)に古鐘と新鐘を錬り合わせて鋳造したことが銘文から分かります。
 元暦年中(1184~5)に源平争乱にまつわる戦争が、遠石八幡宮の付近で行われたことを物語る唯一の記録であり、貴重な金石文として歴史的価値が高いものです。


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○といし歴史百科「遠石八幡宮 洪鐘pdf
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村井喜右衛門寄進の灯篭(遠石八幡宮)
    徳山
村井喜右衛門寄進の灯篭(遠石八幡宮)    寛政11年(1799)、長崎の海を舞台に、沈没したオランダ船を引き揚げるという大プロジェクトが行われました。
 何人もが挑戦し、成しえなかったこの難事業を、技術と勇気をもって成功させたのが徳山櫛浜の村井喜右衛門です。
 喜右衛門の偉業は、鎖国中の江戸時代にもかかわらず、海外に広く紹介されました。
村井喜右衛門寄進の灯篭2
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○ふるさと櫛浜「村井喜右衛門」pdf
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早乙女之碑(遠石八幡宮隣千日寺境内)
    徳山
早乙女之碑(遠石八幡宮境内)    昔々(年代不詳)、田植えの頃になると「早苗打ち」といって、縁起をかついで道を通る人に早苗を投げかけて祝儀をもらう風習がありました。
 ある時、久米ヶ瀬戸の早乙女が、通りかかった飛脚に早苗を投げかけたところ、風習を知らない飛脚は無礼者と早乙女を切り殺したという悲しい出来事があったそうです。
 早乙女を可哀そうに思った村人たちは、久米ヶ瀬戸に松を植え、塚を建てて菩提を弔いました。昭和11年(1936)にこの前に「早乙女之碑」を建てましたが、現在は遠石千日寺境内に移されています。

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○といし歴史百科「久米ヶ瀬戸の早乙女之碑」pdf
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慈福寺宝篋印塔
    市指定文化財・徳山
慈福寺宝篋印塔    鎌倉時代の末期に造られたと推定される宝篋印塔があります。3.16mあり、県下でも類をみない高さです。
 宝篋印塔は、もとは経典を納めるための塔でしたが、時代が下るにつれ、墓塔として造られるようになり、戦で死んだ場所や死者を埋葬した場所に置かれるようになりました。
 江戸時代の記録「防長社寺由来」には、この塔について、足利尊氏が西国に下る途中この寺に立ち寄り、自分の死後の供養のために建てた塔「逆修墓」であると記されています。
 また、昭和の中ごろまでは、塔の付近に一字一石の経文を書いた小石が散在していました。これは14世紀に多く見られる墳墓供養の形態の一つです。
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陶氏の宝篋印塔(海印寺)
    徳山
陶氏の宝篋印塔(海印寺)    陶興明(陶晴賢の伯父)と陶興昌(陶晴賢の兄)の供養塔。海印寺の境内にあります。

 陶興明の墓(右) 明応4年(1495)没 生年19歳
 陶興昌の墓(左) 享禄2年(1529)没 生年25歳
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陶氏居館跡
    徳山
陶氏居館跡    陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭氏を撃つために吉敷郡陶(現・山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
 南方の国道2号線付近に七尾山城、北に上野の城山、別所城などがありました。
 一方、陶氏は海においても、すぐれた兵力を抱えており、その本拠地が現在の防府市の富海、或いは、周南市の古市にあったとされています。
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蓮宅寺道標
    徳山
蓮宅寺道標    銘より文化6年(1809)建立された石碑で、蓮宅寺を中心に東は旧徳山村の北山、西は下上村の岩屋寺までの距離が記されています。
 方形の台石上に建てられた将棋の駒型をした石碑で、碑身の上部には地蔵菩薩坐像を陽刻し、正面下方と左右側面には銘が記されています。
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久保白船句碑(徳山動物園前庭)
    徳山
久保白船句碑(徳山動物園前庭)    「踞ればふきのたう 白船」と彫ってある自然石の碑。白船は、本名を周一といい明治17年(1884)熊毛郡平生町佐合島に生まれました。
 山口中学在学中から俳句を作りはじめ、新傾向俳句誌「層雲」の仲間として活躍しました。
 大正5年(1916)に子女教育のため徳山に移住し、佐渡町(現本町)に文房具と書籍の店を開業するかたわら、「雑草の会」を主宰しました。
 この句碑は、彼の死後、茶の湯、俳句の友であった青木朝介と水仙花の配慮により、昭和17年(1942)に徳山公園双子堤の小丘に建立されました。
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種田山頭火句碑(徳山動物園前庭)
    徳山
種田山頭火句碑(徳山動物園前庭)    「新しい法衣いつはいの陽があたゝかい 山頭火」と刻まれた種田山頭火の平成3年(1991)に建立された句碑です。
 種田山頭火は明治15年(1882)生まれの、大正・昭和前期の俳人で、自由律の俳句誌「層雲」で活躍しました。
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三大夫殉節之碑(徳山動物園内)
    徳山
三大夫殉節之碑(徳山動物園内)    三大夫とは、長州藩の家老である益田親施・国司親相・福原元僴の3人のことです。幕末の動乱の時、長州藩は攘夷を主張したが敗れ、文久3年(1863)に京都を追われました。(8月18日の政変)
 勢力の挽回をはかり、翌元治元年(1864)には三家老が指揮して京都へ出兵しましたが、長州は戦いに負けました。(禁門の変)
 藩内では幕府に対する恭順派の勢いが強くなり主戦派の三家老は禁門の変の責任をとり、切腹を命じられました。
 この碑は、三家老の殉節を称え、昭和15年(1940)に建てられました。
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遥拝石(徳山動物園内)
    徳山
遥拝石(徳山動物園内)    毛利就隆は慶安3年(1650)に、下松から邸宅をこの地に移しました。この時、地名を徳山と改め、就隆を初代藩主とする徳山藩が名実ともに成立しました。
 この遥拝石は3代藩主、毛利元次が朝夕座って、太華山の山頂にある仏像を拝んだと伝えられる石です。
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贈従四位飯田先生旌功之碑(徳山動物園内)
    徳山
贈従四位飯田先生旌功之碑(徳山動物園内)   飯田忠彦は江戸時代後期の歴史家です。

 「大日本史」に記録されていない、後小松天皇以降の420年間の歴史を、30年以上かけて291巻の著書「野史」に書きあらわしました。
 しかし、飯田忠彦は尊王攘夷派の指導者と思われ「桜田門外の変」の時に捕えられ、これに憤慨し万延元年(1860)に割腹自殺をしました。
 時に63歳でした。
 この碑は、大正2年(1913)に有志によって建てられました。
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徳山藩館邸跡(周南市文化会館)
    徳山 
徳山藩館邸跡(周南市文化会館)   児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

 徳山藩は、元和3年(1617)に毛利輝元の次男就隆が、兄秀就から都濃郡の3万石余りを分知されたことに始まります。
 就隆は、初め館邸を下松に設けましたが、慶安3年(1650)に海陸交通の要所である野上村に館を移し、同年野上を改めて徳山と称しました。
 その後徳山は、藩の改易・再興を経て、明治4年(1871)に山口藩に合併するまで、9代およそ220年にわたり城下町として繁栄を続けました。
 徳山藩は、国持ちや城持ちの大名と異り館邸には堀や濠もなく「御館」といったが、天保7年(1836)に幕府から念願の「城主格」を許されると、館邸を「御城」と呼びました。
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岸田劉生記念碑(周南市文化会館)
    徳山
岸田劉生記念碑(周南市文化会館)    岸田劉生は、明治24年(1891)に東京で生まれた大正から昭和初期にかけて活躍した近代日本を代表する洋画家です。

 昭和4年(1929)満州旅行の帰途、同行の画商田島一郎に伴われ、田島の郷里徳山に立ち寄り3週間滞在しましたが、同年12月20日、病気のため当地で亡くなりました。行年38歳。
 徳山では徳山風景、静物など油絵3点、日本画20点余りを描き遺しました。
 昭和46年(1971)12月4日徳山市民館前庭に、劉生を偲ぶ人々によってこの岸田劉生記念碑が建立されました。現在は、文化会館前庭にあります。

武者小路実篤「岸田劉生終焉之街」
川端康成「美」
梅原龍三郎「一世の偉友劉生兄」
と刻まれています。
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大阪城築城残石(周南市文化会館)
    徳山
大阪城築城残石(周南市文化会館)    徳川幕府は、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年間にわたり大阪城の大改修を行いました。
 普請に参加した毛利藩は寛永元年(1624)大津島の石98個を御船手に運ぶよう指示していますが、昭和55年、大阪城小天守台修復工事の際にこの大津島石の所在が確認されました。
 石には毛利氏の家紋を略したものを刻んで運びましたが、これはその時の残石です。
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児玉源太郎産湯之井戸・児玉文庫開設百周年記念碑
    徳山
児玉源太郎産湯之井戸・児玉文庫開設百周年記念碑
児玉源太郎産湯之井戸標石児玉家屋敷跡標石
児玉文庫開設百周年記念碑
   児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎(1852~1906)は、嘉永5年(1852)2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。当時使用していた井戸が保存されており、「児玉源太郎産湯之井戸」の標石があります。
 児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5年(1858)に浅見栄三郎の次男、巌之丞(のちに次郎彦)に家を継がせました。後に次郎彦は、源太郎の姉久子と結婚しています。次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、『正義派』の一人として活動したため、元治元年(1864)8月12日早暁、『俗論派』によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、『正義派』が政権をとるや、慶應元年(1865)7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
 この屋敷跡は明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷の一部を残して、大部分は近代的な児玉文庫としましたが、昭和20年(1945)、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。





児玉文庫
 源太郎は若い頃からの体験をふまえて、自ら学問の大切さを実感し、特に読書の必要性を感じていました。早くから手元に本を集め、郷土の若い人々に読んで欲しいという夢をもっていたといいます。
 明治36年(1903)後進を啓発するために開設した児玉文庫は、正に驚くべき快挙です。
 児玉家を改装して開設した文庫は、近代図書館の先駆けをなすもので、当時のイギリスの新聞にも紹介され、徳山の誇りとする偉大な業績の一つです。


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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成17年3月~平成18年3月「児玉源太郎とふるさと徳山」pdf
○目でみる徳山の歴史 改訂版 「児玉文庫」pdf
 (制作:「目でみる徳山の歴史」改訂版出版実行委員会)
  
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タイワンゴヨウマツ
    徳山
タイワンゴヨウマツ  
児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

 児玉神社は、旧台湾総督児玉源太郎大将を祀るために、大正12年(1923)に創始されたもので、この木は、大正源太郎の偉業を末永く称える記念樹として大正14年(1925)に樹高約2メートルの幼木数本が台湾から取り寄せられ同神社の境内に植えられました。
 昭和37年(1962)の都市計画により街路が改修される際に、伐採の話が起こりましたが、そのまま残すことになりました。街路がこの部分だけ狭くなっているのはそのためです。
 このタイワンゴヨウは日本に植栽された記録はなく、マツ属の分類、利用などの研究のうえで、このように熟成した巨木の存在は学術的に貴重なものです。
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児玉将軍旧邸 勤王七士之碑 
    徳山
児玉将軍邸標石
勤王七士之碑
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児玉将軍旧邸
 児玉家が家名断絶後、再興を許され、改めて屋敷を与えられた場所。















勤王七士之碑
 元治元年(1864)禁門の変の直後、徳山藩では富山源次郎を中心とする俗論派と河田佳蔵を中心とする正義派が激しく対立していました。
 この年の8月9日夜、正義派の10数人は俗論派の藩士の住居を襲い、これをきっかけとして俗論派は正義派の7人を捕え処刑した。これを徳山藩の殉難七士といいます。
 七士とは河田佳蔵、児玉次郎彦、本城清、江村彦之進、浅見安之丞、信田作太夫、井上唯一です。
 七士殉難の後、徳山藩では俗論派の勢力が衰え、正義派の時代となり、やがて殉難七士の家は復興されました。


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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成17年3月~平成18年3月「児玉源太郎とふるさと徳山」pdf
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児玉神社 徳山七士碑
    徳山 
児玉神社正面
徳山七士碑と児玉源太郎頌徳碑
児玉神社入口
  児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

児玉神社
 大正11年(1922)12月15日、当時の徳山町の前田蕃穂外52名の有志が「県社児玉神社創立許可願」を内務大臣に提出しました。
 その願書には「・・・日清戦争に功あり。明治31年には台湾総督となり、政治を刷新して教化を進めて交通産業の発展に寄与しました。その間陸軍大臣を、さらに内務・文部両大臣を兼務し、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大で、等しく満天下の認めるところです。この地に児玉神社を建設し、国家守護の神として、その遺徳を後世に伝え、人心の感化に資し、もって国民の道徳の標的にしたい。・・・」と記されています。
 翌12年8月14日に許可され、「児玉将軍屋敷跡」に流造の本殿と拝殿が創建され、昭和8年(1933)5月16日に県社に列せられました。拝殿の「児玉神社」の掲額は、児玉源太郎の長男秀雄の揮毫で、毎年3月10日に例祭が行われています。
 境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒章之記」、歌碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。

児玉源太郎頌徳碑
 児玉源太郎は、第4代の台湾総督を務めましたが、その下で民政局長として辣腕をふるったのが後藤新平です。
 この碑には、児玉総督を大変慕っていた後藤新平の揮毫で「徳足以懐遠」と記されています。
 礎石からの高さは凡そ四米あり、自然石で威風堂々としていて、周囲には玉垣を巡らしています。
 この碑は、大正7年7月に源太郎の13回忌に地元の奉賛会によって、総督ゆかりの屋敷跡に建立されたものです。
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祐綏神社
    徳山
祐綏神社
徳山改称250年記念碑と徳山開府250年記念碑
 
児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

 もとは徳山藩主毛利家の霊社でしたが、明治7年(1874)5月に祐綏神社に改められました。明治31年(1898)10月に郷社に列せられ、大正4年(1915)10月には県社に昇格しました。その後、昭和20年(1945)7月26日の徳山空襲により焼失しましたが、昭和35年(1960)11月に毛利家の御霊社社殿の寄付を受けて、この地へ再建されました。
 もともと祭神は初代藩主毛利就隆でしたが、大正4年(1915)に9代藩主元蕃が増加されました。
 初代就隆は、城下町徳山の基礎を築き、大いに文武を奨励し、産業を興し、交通運輸の便をはかり、商工業の発展に努め、徳山発展の基を開きました。
 9代元蕃は、幕末・維新の時に東奔西走し、よく萩本藩を助け維新の大業に尽力しました。また文武の振興に努め、産業の興隆に寄与し、戊辰戦争でも多大の功績をおさめ士民から敬愛されました。
 境内に、「徳山藩開府250年」と「徳山改称250年」の記念碑が建立されています。
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旧藩学館跡 
    徳山
旧藩学館跡   
児玉源太郎と徳山藩特別地図はこちら地図(児玉&徳山藩)

 享保4年(1719)に宗藩は萩に明倫館を創建しました。徳山藩はそれに後れること66年、天明5年(1785)7代就馴治世に藩校「鳴鳳館」が開設しました。その後、清末毛利氏、長府毛利氏、岩国吉川氏はそれぞれ藩校を設立したので、四支藩の中では徳山藩が最も早く藩校を設立したのです。
 鳴鳳館は延享元年(1744)に設けられた武芸稽古場を増改築したもので、その位置は徳山勢屯の東詰角北向屋敷、すなわち御蔵本の東隣でした。この創設に最も力を尽くしたのは奈古屋蔵人でした。
 鳴鳳館の名は、詩経の大雅の巻阿の章の、「鳳凰は鳴く、彼の高き岡に。梧桐は生ず、彼の朝の陽に。菶々萋々、雝々喈々と」に由来すると伝えられています。天保2年(1831)に、桜馬場(今の徳山小学校の位置)に学館を移築して、その規模を拡大しました。さらに、時勢によりおのずから館名の改称を促すに至り、嘉永5年(1852)鳴鳳の名を廃して「興譲館」と改めました。
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旧藩新角場跡
    徳山
旧藩新角場跡     角場というのは射撃の練習場(試し撃ちをする所)のことです。江戸時代に徳山藩では、元禄から享保にかけては銃器は軍制上、足軽の所用とされ、武士はその技を修めませんでした。文化7年(1810)に中島流の砲術を起して、稽古料として毎年銀200匁あてを修業者に支給しました。これが武士の砲術のはじめであり、当時の師範は佐藤紀内でした。
 当分のあいだ的場を設けませんでしたが、やがて弘化4年(1847)2月に三番丁の射的場で中島流砲術の稽古を開始しました(旧藩旧角場跡)。
 その後、この射的場が狭く不便となり、安政3年(1856)8月5日に当時の舞車のこの場所に移転しました。ここでは中島流砲術師範 羽仁三郎太夫に西洋流砲術の師範も兼ねさせ、幕末まで角場として使用されました。なお、砲術では棟居龍洞・中川半平・羽仁一夢斉・福間十兵衛らが有名で、兼崎橙堂は西洋砲術に通じていたといいます。
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旧藩鐘楼跡
    徳山
旧藩鐘楼跡    初代藩主就隆は慶安3年(1650)地名を徳山と定め、城下町をつくって家中屋敷の西北、鐘楼町の北東の川端に、鐘撞堂をつくり万治元年(1658)9月10日の卯の刻(午前6時)に時鐘の撞き初めを行いました。
 以来廃藩まで、数度、鋳替えしましたが、徳山藩政200余年にわたって城下に時を告げるとともに、有事の際に利用しました。
 廃藩後、徳応寺に所有された時鐘は、第2次世界大戦の際に、第1回目の供出を免除されたものの、時の流れには逆らえず、ついに銘文のみを残して供出されました。
毛利邸周辺地図
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本城三儒屋敷跡(徳山高校付近)
    徳山 
本城三儒屋敷跡    本城三儒とは、本城家に三代にわたって偉大な儒学者が続いたのでこの名称があります。三儒とは紫巌・太華・素堂を指しています。
 紫巌(1737~1803)は最初、萩の明倫館で山根華陽に学び、やがて江戸の滝鶴台で学びました。帰藩してから天明5年(1785)鳴鳳館が創立されると学頭としてその発展に尽力しました。
 太華(1755~1844)は、紫厳の子で、九州の高木紫溟や亀井南冥に学び帰藩して鳴鳳館の助教となり、更に世子広篤(後の九代藩主元蕃)の侍講となりました。
 素堂(1825~1865)は、通称清といわれ、徳山藩士江村氏の出で本城家を嗣ぎました。藩主元蕃の近侍兼文学師範をつとめ、政務にも参与しました。後に興譲館の教授となり更に世子元功の近侍となりました。 
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旧藩花畑練兵場跡
    徳山 
旧藩花畑練兵場跡     明治2年(1869)5月箱館の戦を最後として、旧幕府軍の抵抗は終りをつげ、この戦いに参加した徳山藩の山崎隊や献功隊などの諸隊もやがて徳山に凱旋しました。
 そこで徳山藩政府は明治3年11月にこの勢屯御花畠に兵塾を建設して諸隊をここに集めて訓練を加えた。この兵塾(寮)での生活はかなりきびしく、当時発せられた定則によると「日課は朝5時起床、7時朝食、午前中操練12時昼食、午後操練、夜9時消燈就寝」とあります。
 明治4年徳山藩が山口藩に合併されたので諸隊も解散しましたが一部の者が山口藩に移管されました。
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福原元僴幽閉之地(周南市立中央図書館前)
    徳山
福原元僴幽閉之地(周南市立中央図書館前)    福原元僴は越後ともいわれ徳山藩8代藩主広鎮の子で、後に宗藩の福原家を嗣ぎ、常に藩の要職をつとめた人物です。幕末の動乱期の禁門の変(1864)には宗藩の家老で総大将をつとめました。この変は長州藩の敗退に終り、元僴はその責任を問われて、益田右衛門介、国司信濃とともに俗論派政府により切腹を命じられました。この3人の家老は、徳山藩であずかることになり、益田は惣持院に、国司は澄泉寺に幽閉され同年11月11日に切腹しました。元僴は徳山藩の衣笠伊織宅(この石碑付近)に幽閉されましたが、徳山藩主の子であるため岩国に護送され、11月12日に切腹し、波乱に満ちた50年の生涯を閉じました。
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浅見安之丞屋敷跡・児玉次郎彦誕生之地(山口県周南総合庁舎)
    徳山 
浅見安之丞屋敷跡・児玉次郎彦誕生之地(山口県周南総合庁舎)    児玉次郎彦は、浅見栄三郎の二男で、児玉家を嗣ぎ、藩の周旋方や大目付、興譲館の助訓役兼寮長をつとめました。浅見安之丞は、浅見栄三郎の長男で、興譲館の句読師となり、大島流の指南役もつとめ、後に藩主元蕃の子元功の学業指導にあたりました。元治元年(1864)の俗論派との争いの際、児玉次郎彦は自宅で暗殺され、浅見安之丞は本城清と信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、慶応元年(1865)正月14日に新宮の海辺で縊殺されました。
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旧藩台場跡
    徳山
旧藩台場跡    アメリカの黒船が浦賀にやって来てから、通商か、それとも攘夷かと、いろいろ論議が高くなり騒動しくなっていきました。しかし結局、攘夷論が強く文久3年(1863)には最も高潮に達し、そのため4月には、いよいよ5月10日を期して外国船打ち払いとの勅令が下されました。この攘夷論を主唱したのが、わが長州藩でした。
 そこで徳山藩では海上の防備のために大砲の鋳造を計画し、金具類の供出を命じ、また、海岸の熊野権現の森には砲台場が築造されました。
 この台場跡は、後には相撲場になっていましたが、これより南へ100mのところに、高い土手を廻した円形の広い窪地として遺っていました。台場はこの外に那智・大津島にも構築されたとあります。この標石は、新幹線工事の時に古い標石が破損したので、地元の有志によって新しく建立されたものです。
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浅田栄次博士生誕地碑
    徳山
浅田栄次博士生誕地碑    浅田栄次は慶応元年(1865)5月22日、徳山に生まれ、長じて帝国大学に進み、在学中志を立て渡米しました。
 明治26年(1893)セム系言語(アラビア語やヘブライ語)や、神学の研究により、シカゴ大学初の博士号を受けました。帰国後、東京外国語学校が創設されるに際し、英語科主任教授に任命されました。
 わが国英語教育近代化の一翼を担うと共に、幾多の秀逸な人材を育てましたが、大正3年(1914)11月10日、同校図書館において急逝しました。
 彼は、英語教育のみならず、国際補助語・エスペラントの普及発展に寄与し、わが国の国際化に先駆的な役割を果たしました。
 この石碑は、平成5年(1993)11月2日に建立されました。
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五卿登陸記念碑
    徳山
五卿登陸記念碑    文久3年(1863)の「八・一八政変」後、勤王派の7人の公卿が京都を追われ、3隻の船に分乗して兵庫を船出して長州に向かいました。1番船には三条実美、2番船には三条西季知・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳、3番船には東久世通禧・沢宣嘉が乗り込みました。
 3隻とも三田尻まで直行する予定だったが、嵐のために3番船はかろうじて目的地についたものの、1番船と2番船は笠戸に1泊し、翌日に徳山の東浜崎に上陸し、陸路を三田尻に向かいました。
 この五卿が東浜崎に上陸したことを記念し、上陸地点(旧東浜崎)の近くに、大正2年(1913)に道源権治により「五卿登陸處」の石碑が建立されました。
 激動する幕末・維新の歴史を物語る大変貴重な史跡です。
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孝女阿米之碑
    徳山
孝女阿米之碑    寛政3年(1791)お米は徳山橋本町に生まれました。6歳のとき母親を亡くし、母親の実家に引き取られ養育されましたが、12歳のとき父親が病にかかり、看護のために帰宅しました。天性純孝なお米は労苦をいとわず、人の真似できない数々のことを行い、31年間父親の孝養につくしました。
 このお米の話が藩主の耳に入り、徳山藩主より度々表彰され、褒美として米穀や恩賞を賜りました。
 後年お米は病にかかり、嘉永5年(1852)3月4日62歳で逝去しました。法名を「慈順」と諡し遺骨は川端町竹園山徳応寺境内に葬られました。
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万役山
    徳山
万役山    万役山事件
 正徳5年(1715)、徳山藩3代藩主のとき、(※)万役山の松の木を一本切り取った萩本藩領地(当時西久米村一帯)の農民を、徳山藩の山役人が斬り殺すという事件が発生しました。
 この事件から、萩領と徳山領の領地争いとなり、双方の領民まで巻き込む大騒動となったので、萩藩主は本藩の権威上「支藩が本家に対して反抗非礼あり」として江戸幕府に徳山藩に対する処置を請願しました。幕府の処置は厳しく「徳山藩を取り潰し改易」の裁定となりました。
 後に、徳山藩士の主家再興の誠意努力が江戸幕府の心を動かし、享保4年(1719)5月、徳山藩は再興されました。

(※)当時万役山は、萩領では「墓ノ尾山」、徳山領では「尾崎山」と呼ばれていたそうです。

 碑文には、正面「史跡万役山尾崎」と記し、側面には「この地は正徳五年六月徳山藩と萩藩との境界紛争発端の地なり」と記されています。


-関連記事-
○機関紙「ふるさと かわら版
  平成23年冬号(No.37)「万役山事件」pdf
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堀川運河功労者頌徳碑
    徳山
堀川運河功労者頌徳碑     明治5年(1872)頃、(第7大区区長)藤田与次が、堀川の掘穿を熱心に計画し、翌6年に着手して、同7年4月に完成しました。この運河により、徳山湾と笠戸湾が連絡することになり大変便利になりました。
 この工事責任者は、(第7小区区長)村長の温品孫四郎でした。孫四郎は文化14年(1817)栗屋の生まれで、天保3年(1832)栗屋村の村長となりました。徳山藩のために租税の悪弊を矯正したことで永代苗字を許され、かつ永代大庄屋格となっています。
 四境の役の時には軍資金を調達した功績により秩禄を賜っています。また、堀川運河掘削に尽力したばかりでなく、道路の改修・橋梁の架設などに努め、明治26年(1893)76歳で没しました。
 彼らの堀川運河掘削の功により、頌徳碑が建立されました。

-関連記事-
○ふるさと櫛浜「堀川運河」pdf
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向原古墳
    徳山
向原古墳   向原一号古墳

 この古墳は、古墳時代後期(7世紀頃)のもので、横穴式石室を有する円墳です。
 石室は、直径約8m、高さ約2mの封土(盛土)で覆われています。
 内部は、両袖の羨道のある石室で、玄室の広さは、奥行き3.8m、幅3m、高さ1.5mで羨道の長さは約2mです。
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与謝野鉄幹歌碑(太華山)
    徳山
与謝野鉄幹歌碑(太華山)
太華山展望
  「彼のあたり二十の前の我を知る
          蛇島 仙島 黒髪の島」

 与謝野鉄幹は明治22年(1889)から3年間、教師として徳山で過ごしました。その後、昭和9年(1934)に再び徳山を訪れた時、二十首の歌を詠みました。そのうちの一首を刻んだ歌碑が太華山山頂付近に設置されています。
 この歌碑は、昭和38年(1963)5月蛇島に建立されましたが、その後昭和46年(1971)4月現在地に移設されました。
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杉家屋敷跡
    徳山 
杉家屋敷跡    中世の徳山は野上庄といわれ、しばらくの間、陶氏がこの地方を治めていました。14世紀になると、陶弘政の有力な家人である野上氏が配置され、陶氏の重臣として活躍したといいます。
 弘治元年(1555)、陶晴賢の厳島での敗死に端を発し、陶氏が滅ぶと野上氏も運命をともにしました。野上氏が滅ぶと杉元相がかわって野上を支配しました。元相は金剛山下のみはらしのいいこの地に居館を構えました。毛利氏に仕え勘解由判官と称し興元寺を建立しましたが、その子元宣は天正17年(1589)野上庄沖で横死し、杉氏はわずか20数年で断絶しました。
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関門基礎石
    徳山
関門基礎石    徳山藩初代藩主毛利就隆が藩の政治をよくするため、武家屋敷に4か所の関門を造って出入りを厳しくしました。
 この石は、一番丁北上に設けられた北の関門の片方の石で、戦災で焼けた跡にあったものを地元の人が発見し、弁財天の所に運んで保管していたものです。
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益田親施幽閉賜剣之地
    徳山
益田親施幽閉賜剣之地     益田氏は阿武郡須佐1万2千余石を領し、毛利氏の永代家老です。益田右衛門介親施は嘉永2年(1849)、家督をついで吉田松陰に兵学を学び、以後藩の要職につき藩主を助け藩政に尽力しました。文久3年(1863)藩主の命を受けて上洛しましたが、「8月18日の政変」の後、三条実美等七卿を奉じて帰藩しました。
 やがて禁門の変で幕府軍に敗れ、その責任を問われることとなった長州藩は、その責任者として益田右衛門之介親施、国司信濃親相、福原越後元僴の三家老を切腹させ幕府に謝罪しました。
 益田親施は、この標石の位置からやや東よりにあった惣持院(明治4年廃寺)に幽閉され、元治元年(1864)11月11日夜切腹を命じられました。ときに32才でした。
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井上唯一屋敷跡
    徳山
井上唯一屋敷跡    井上唯一は、幼名を彦太郎と称し、後に和彦と改めた。若い時から武芸の技をみがくとともに、和歌・連歌にもすぐれていました。若くして勤王の志が大変厚く、幕末には騎兵隊の一員としても活躍しました。文久3年(1863)の外国船の下関砲撃の際には、後の長州藩主元徳に従って出陣し、七卿都落ちの時にはその護衛の役をつとめました。幕末における徳山藩の内訌(うちわもめ)の際には、「正義派」の一員として活躍したために「俗論派」に捕えられて浜崎の獄舎につながれ、元治元年(1864)10月24日に処刑されました。23才でした。藩論回復後、徳山藩主元蕃は殉難七士の家を復興し、その遺族を優遇しました。
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奈古屋蔵人屋敷
    徳山
奈古屋蔵人屋敷   奈古屋蔵人(1742-1793)
 徳山藩の家老で、宝暦8年(1758)16才のとき父の跡を受けつぎ、30年余にわたり、広寛、就馴の2人の藩主に仕えました。その間、江戸の藩邸につとめること8度、宗藩にも度々出向くなど藩の発展につくしたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」の創設に尽力しました。
 蔵人は徳山藩の著名な藩士の一人で、後世その遺徳をたたえて、文化4年(1807)に八正寺に追慕の碑が建立されましたが、現在は大迫田に移設されています。
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飯田忠彦誕生之地
    徳山
飯田忠彦誕生之地   飯田忠彦は、寛政10年(1798)に徳山藩士生田十蔵の二男として生まれた江戸後期の歴史家です。松尾恒貞の養子となり、松尾恒憲と名乗って江戸の藩邸に勤務していました。文政4年(1821)24才のときに河内の八尾の豪族飯田謙介の婿養子となり、文政6年(1823)に離縁し同家を出奔するも、飯田姓を残し名を「忠彦」と改めました。。
 若い時から国史に興味を持ち、特に水戸藩の「大日本史」を熟読しました。この大日本史は神武天皇から後小松天皇まで、列伝武将は足利尊氏までしか記述がないため、忠彦は明徳3年(1392)の後小松天皇から仁孝天皇までの420年間の史実を伝記体に編集することを決意しました。それから30年余りかかって、ついに291巻の大著「野史」(民間で編纂した歴史)の刊行を達成しました。
 忠彦は尊王の大義を唱え、梅田雲濱・橋本佐内らの勤王の志士との交わりがあり、安政の大獄のとき留置の身となり、やがて万延元年(1860)5月自殺しました。時に63才でした。
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本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡
    徳山
本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡    本城清は、江村忠韶の第2子で、本城家を継ぎ、興譲館教授をつとめました。元治元年(1864)の俗論派との争いの際、浅見安之丞と信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、慶応元年(1865)正月14日に新宮の海辺で縊殺されました。
 江村彦之進は本城清の弟で、興譲館訓導役をつとめました。元治元年に暗殺されました。
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国司親相幽閉賜剣之地 
    徳山
国司親相幽閉賜剣之地     国司親相は長州藩の家老で、尊王攘夷の大義を唱えた幕末の志士の一人です。
 文久3年(1863)8月18日の政変で京都を追われた長州藩は、翌元治元年に親相ら3人の家老が指揮して京都に攻めのぼりました。しかし、「蛤御門の変」で大敗し、再び京都を追われました。
 幕府は長州藩に、この変の責任を問い謝罪を求め、そのために藩では親相をはじめ益田親施・福原元僴の三家老をそれぞれ支藩の徳山藩に幽閉し自刃を命じました。
 この場所は、元は西に100mほどのところに明治4年(1871)に廃寺になった「澄泉寺」があったところで、親相の幽閉賜剣の地です。
 元治元年(1864)11月11日夜、親相は切腹しました。時に23歳でした。
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島田蕃根先生旧邸址
  徳山
島田蕃根先生旧邸址   島田蕃根(みつね)は、文政10年(1827)周防徳山に生まれました。18歳の時江州三井寺で仏教を学び、その後儒教・神藤を修養しましたが、徳山藩主の命により徳山藩形勢視察使として京阪地方に遊歴しました。その際、天下の志士と交わり勤王の説を唱え、王政復古の折に徳山藩の藩校「興譲館」の教授となりました。

教授の任をよく果たしたことから、藩主元蕃公の偏字を賜わり、蕃根と称しました。
その後徳山藩大参事となり藩政に尽くしました。

明治40年(1907)9月2日没81歳の生涯でした。

徳応寺の筋向に屋敷跡の石碑がたっています。
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