長穂念仏踊
  県指定文化財・長穂
長穂念仏踊    陶晴賢が自刃したのち、杉重輔が陶氏の居城だった若山城に攻めてきたため、長房(晴賢の子)ら陶氏一族は、龍文寺に立てこもりました。川と険しい山に囲まれた寺はなかなか攻め落とせなかったため、寄せ手は古くから伝わる周方神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱入しました。これにより、陶一族は自刃し、滅亡しました。
 その後、陶氏供養のためにその踊りを伝え、毎年旧暦の7月7日に龍文寺で催されていましたが、後に雨乞いの踊りに変化し、念仏踊として県の指定文化財となりました。

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  私達の長穂 100号達成記念「念仏踊り」pdf
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金銅経筒(龍文寺)
  市指定文化財・長穂
金銅経筒(龍文寺)    蓋・筒身・基台の三部からなり、それぞれを別々の銅板から製作して組み立て、鍍金しています。銘文により弘治2年(1556)に越後国の僧空源が、全国の霊場を巡回して奉納した経筒の一つということがわかります。
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木造釈迦如来坐像
  市指定文化財・長穂
木造釈迦如来坐像    銘文によれば、本像は応安7年(1374)7月1日に院什法印が彫成したことがわかります。
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鉄造茶釜
  市指定文化財・長穂
鉄造茶釜    鋳鉄製の大茶釜。銘文によると、永正2年(1505)に陶氏八代の当主興房が、陶氏代々の香華寺である龍文寺僧堂の公用に供する為、鋳工に命じて鋳造させたもので、陽鋳の銘文によって注文作であることを示しています。
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陶氏墓所(龍文寺)
  市指定文化財・長穂
陶氏墓所1
陶氏墓所2
   龍文寺は、室町時代の永享元年(1429年)に五代 陶盛政が建立したお寺で、陶氏代々の菩提寺でした。
 陶氏は南北朝時代、二代の弘政が吉敷郡陶(現・山口市陶)から都濃郡富田保に移り住み、天文20年(1551年)、陶晴賢が主君大内義隆を撃ち、大内氏の実権を握り、天文24年(1555年)、厳島の戦いで毛利元就に敗れ、2年後に滅亡するまで、この地方を200年余り領有していました。
 江戸時代の文書には、陶氏歴代の供養塔が龍文寺に存すると記されているが、50〜60基あるうち人物が特定できるのは、陶弘護の妻の父、石見国益田兼堯と陶興房の妻の2基のみです。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成20年夏号(No.23)p2〜3「龍文寺の梵鐘」pdf
○長穂地区「私達の長穂
  第210号(平成15年8月)「龍文寺の山門再興へ」pdf
○目でみる徳山の歴史 改訂版 「式内社 二俣神社」pdf
 (制作:「目でみる徳山の歴史」改訂版出版実行委員会)
  
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周方神社社叢
    市指定文化財・長穂
周方神社社叢    周方神社社殿背後の南斜面を覆う表面積4000uにおよぶ樹林です。
 この樹林は瀬戸内海沿岸に普遍的な常緑性広葉樹林(ツクバネガシ、アカガシ等)の上限をなす林相で、自然のままの状態がよく残されています。特にツクバネガシ、アカガシの巨木はこの近辺でみることは出来ません。また、分布の限られた種類としてカラタチバナの存在は大変めずらしいものです。

境内入口の狛犬
周方神社入口の狛犬1周方神社入口の狛犬2
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絹本著色陶弘護像(龍豊寺) 
    国指定文化財・大道理
絹本著色陶弘護像(龍豊寺)    万年山 龍豊寺は、室町時代に周防の守護代を務めた陶弘護の室が文亀元(1501)年に夫の菩提を弔うため創建したものと伝えられています。陶弘護は、文明14(1482)年に吉見氏(津和野)と大内氏の館で争い、28歳でこの世を去りました。
 龍豊寺が所属する絹本著色陶弘護像は、弘護の3回忌に描かれた絵で、雪舟の筆と伝えられています。昭和49年に国の重要文化財(絵画)に指定され、現在は周南市美術博物館に寄託されています。

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○目でみる徳山の歴史 改訂版
 (制作:「目でみる徳山の歴史」改訂版出版実行委員会)
  「陶弘護画像 (国指定重要文化財)」pdf
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絹本着色釈迦十六善神図
  市指定文化財・須々万
絹本着色釈迦十六善神図    室町時代の文亀3年(1503)に勝屋貴為が須々万八幡宮に寄進した画幅です。
 十六善神がまことに精緻に描写されているだけでなく、制作の時代も明らかで、かつ須々万八幡宮に奉納せられて以来の伝来も明らかであり、しかも、本図寄進のもととなった須々万八幡宮伝来の応永時代書写の大般若経とともに伝存し、その転読に際しては、現在においてもその本尊として掲げられて来ていることは、いっそうの価値を高めています。
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紙本墨書大般若波羅密多経
  市指定文化財・須々万
紙本墨書大般若波羅密多経    大般若波羅密多経は唐の玄奘の訳で、紀元1世紀ごろから個々に成立したものを、表題名に集大成したもので、すべて600巻です。この経は、古来、大般若転読会に用いるため、多くの寺社で書写されました。
 奥書によれば、応永21年(1414)から同25年にいたる4年間に、25人余りの人々の手によって書写されたことが分かります。また、この写経は当初から須々万八幡宮に奉納する目的をもってなされたことが分かります。
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大玉スギ
  国指定文化財・須々万
大玉杉    このスギは、遠望すると枝張りの姿が玉の形に見えるところからその名があります。地名にちなんで須々万の大杉とも、飛龍八幡宮にちなんで飛龍杉とも呼ばれています。
 このスギは、須々万の守護神を祀る社地の決定をめぐって新庄と本庄の住人が競って譲らなかったため、双方の希望する所にスギ一本宛を植え、その生育の良否をもって社地を決めようと神に誓ったところ、本庄のスギが枯れたため、新庄のこのスギに神霊を奉遷したと伝えられるものです。その後、この地に飛龍八幡宮社殿が康暦2年(1380)に建立されました。
 この直立したスギは、根元の周囲は約16.38メートル、目通り周囲は10.3メートル、樹高は約36.0メートルある県下最大の老巨樹です。落雷の被害を受けたりしましたが、樹勢を回復する措置がとられています。


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○徳山百樹 須々万 飛龍八幡宮“大玉杉”pdf
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須々万八朔祭り
  市指定文化財・須々万
須々万八朔祭り    須々万には、古くから伝わる八朔祭という夜まつりがあります。このまつりは五穀豊穣と悪疫鎮静の祈願をこめて行われているもので、以前は旧暦8月の朔日(ついたち、1日のこと)に行われていましたが、現在は新暦の8月25日に一番近い土曜日に行われます。
 八朔祭には毎年、大名行列が繰り出します。これは御神幸に菅原道真公ゆかりの大行司、小行司がお供するもので、明治の初めころがら大名行列の形式が組み入れられ、一段と古式豊かなものになっています。

須々万公民館HPに八朔祭りの詳細記事が掲載されています。
 須々万公民館ホームページ(周南市HP内)へ
 須々万公民館の詳細記事ページへ
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飛龍八幡宮樹林
    須々万
飛龍八幡宮樹林     スギ、ヒノキ等の高木層、シラカシ、ウラジロガシ等の亜高木層、シキミ、オガタマノキ等の低木層、ベニシダ、ハリガネワラビ等の草本草で構成されており、極相に達しています。本樹木は、この地域の源植生を示す貴重なものであり、古くから地域住民にも親しまれていることから、これを適正に保存するため、山口県自然記念物に指定されています。
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飛龍八幡宮石碑
    須々万
飛龍八幡宮石碑    建武3年丙子10月に建立された、境内で最も古い石造物です。
 建武3年の文字が石碑に刻まれていますが、土の中に埋まっているため、見ることはできません。
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沼城跡
  須々万
沼城跡    毛利元就の防長制圧において、最大の激戦となったところが、ここ沼城の戦いです。
 天文24年(1555年)10月1日、安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った元就は、破竹の勢いで周防の国に入り、岩国の永興寺を本陣として防長2州の制圧に取りかかりました。
 弘治2年(1556年)4月19日、元就の嫡子隆元は、兵約50騎を率いて岩国を出発し、翌20日須々万に到着、沼城攻撃を開始しました。
 しかし、沼城に集結した大内陣営の勢力は、毛利方の予想をはるかに上回るものがあり、その上、城は三方を沼沢に囲まれた要塞賢固な城塞であったため、退去を余儀なくされました。
 その後、9月22日に再び、隆元が大軍を率いて来攻しましたが、沼に悩まされて進めず、両軍の全面衝突には至りませんでした。
 このため、翌弘治3年(1557年)2月27日、元就自らが総大将となり、将兵1万余騎を率いて岩国を出発し、翌々29日から総攻撃にとりかかりました。総攻撃にあたっては、沼に編み竹を投げ入れ、この上に筵を敷いて押し渡り、城中に攻め入ったため、城内は大混乱となりました。
 城主山崎伊豆守興盛は陣頭指揮で必死に抵抗をしましたが、やがて力尽き、江良弾正忠堅宣は城を出て降参し、伊豆守父子は自刃し、3月3日落城いたしました。この戦いで籠城していた男女千五百人余は討たれたとも言われています。

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○目でみる徳山の歴史 改訂版  
 (制作:「目でみる徳山の歴史」改訂版出版実行委員会)
  「須々万沼城の戦い」pdf
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山崎伊豆守興盛自刃の地碑
    須々万
山崎伊豆守興盛自刃の地碑    弘治元年(1555)、厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利軍は防長に進出、陶氏の重臣である山崎伊豆守らが沼城に立てこもり頑強に抵抗しました。
 沼城の攻防は弘治2年(1556)4月に始まり、翌年3月の毛利元就を総大将とする総攻撃により城主山崎伊豆守親子は自刃、籠城していた1500名余りが討たれたと言われています。
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小辻の道標
    須々万
小辻の道標    小辻橋のたもとにある道標。須々万川(小辻川)に架かるこの橋は、古くは花岡や野上(現・徳山中心地)の南部と都濃北部に通ずる交通の分岐点に位置し、社寺参詣や市がたつなど人々の生活と文化の交流の場でした。
 この道標は周防北道の要衝であった当時の繁栄ぶりを示すただ一つの証です。
 道標正面には「西 徳山道」右側面に「南 花岡道」と刻まれているのが分かります。
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周南市の史跡を訪ねて
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