八代のツルおよびその渡来地
  国特別天然記念物・熊毛
八代のツルおよびその渡来地    江戸時代は幕府の命令でツルを捕獲するとこは禁止されていました。明治になってこの規制が無くなり、ツルは各地で乱獲されたが、八代では住民が自発的にツルの捕獲禁止を申し合わせ、ツルを保護しました。
 明治20年(1887)に山口県知事が八代のツルの捕獲を禁じました。明治25年(1892)にツルが国の保護鳥に指定され、大正10年(1921)、八代は「鶴渡来地」として天然記念物の指定を受けました。
 昭和15年(1940)には最高記録355羽のナベヅルが八代に飛来した。昭和30年(1955)、特別天然記念物「八代村のツル及びその渡来地」の指定を受け、昭和38年(1963)には「野鳥監視所」が建設されました。
 ツルの飛来数は、シーズンを追うごとに減少していったので、平成10年(1998)からツルの誘因を目的にデコイ(模型)が設置されました。

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○周南市HP「鶴いこいの里交流センターホームページ
   ナベヅルの生態
○機関紙「ふるさと かわら版
  平成22年冬号(No.33)「八代のツル句碑」pdf
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大蔵経
  市指定文化財・熊毛
大蔵経    大蔵経とは仏教の経を一堂に集めたものをいいます。円照寺第12世住職愍順和尚は篤学の人で、明治24年(1891)に村民の浄財を用いて購入した、1916部、8534巻もの経本です。
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花笠踊
  県指定文化財・熊毛
花笠踊    7年に一度八朔に八代魚切地区民により行われてきた踊りで、明治以降は7年に一度8月26日の二所神社八朔風鎮祭に踊られるようになりました。
 この踊りは、陶晴賢の謀反により最後を遂げた大内義隆の供養のために村人により踊り始められたとも、晴賢が義隆を館から誘い出すために踊らせたとも伝えられています。
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木造聖観音菩薩坐像
  市指定文化財・熊毛
木造聖観音菩薩坐像    高寺観音は本尊聖観世音菩薩で、伝・行基菩薩という聖観音像である。第24代大内弘世の時、周防三十三観音霊場第十番札所に定められ、霊験あらたかな観音様として信者の参詣が絶えません。
 当時は、西隣の山頂(高堂)に安置されていましたが、雷火による火災で観音堂のみ残り、安国寺第5世代に現在の地に移されました。
 20年ごとに本開扉法要が営まれていましたが、昭和になり中間の10年ごとに開扉法要が盛大に行われています。
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新畑神舞(しんぱたかんまい)
  市指定文化財・熊毛
新畑神舞    大河内新畑地区民によって、熊毛神社および人丸神社の祭礼に奉納されてきた神楽舞です。
 舞人6人横笛3人太鼓1人合わせ鐘1人で演じられ、舞人は白衣に馬乗袴を着け白足袋を履き、5色のたすきをかけ鉢巻きをします。舞殿は四隅に竹を立て注連縄を張り、注連縄には榊ぬさのほかに神名を書いた紙札をつるします。
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諫鼓踊(かんこおどり)
    県指定文化財・熊毛
諫鼓踊(かんこおどり)    熊毛神社の10月11日の秋の例祭に、勝間地区民により7年に一度奉納される踊りです。歌を伴わず、楽器としては太鼓と鉦を主として用い、団扇と杖を用具として加える点に特色があります。
 伝承によれば文禄の役戦勝の礼のため豊臣秀吉が踊りを奉納したことに始まるとも、陶晴賢が大内義隆を討ち取った時の様子を踊りにしたともされますが、中世の田楽に起源を持つと考えられています。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成20年冬号(No.25)「熊毛神社と諫鼓踊」pdf
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木造大日如来坐像 等
    市指定文化財・熊毛
木造大日如来坐像 等    熊野神社のそばにあった神光院の仏像です。明治初期の神仏分離令によって寺は解体され、その本尊である大日如来像他諸仏像や涅槃画、大般若経が残されています。
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吉田松陰と寺嶋忠三郎訣別の地
    市指定文化財・熊毛
吉田松陰と寺嶋忠三郎訣別の地    寺嶋忠三郎は松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に尽くしましたが、禁門の変で久坂玄瑞とともに自刃しました。
 安政6年5月松陰は江戸に送られることになり25日檻輿は萩を発し小郡を経て山陽道を東進して高水村を通過した忠三郎は当時高水におり呼坂に於て師と無言の別れを告げた場所です。

石碑には、

かりそめの今日の別れは幸なりきものをも言はば思いましなん
松陰

よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 
忠三郎

と刻まれています。
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呼坂本陣跡
    市指定文化財・熊毛
呼坂本陣跡    防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂」と記されています。江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間(1781年)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしました。
 河内家には現在も大名等宿泊、休憩の際の「お休み札」、「宿泊の部屋」、安政3年(1856年)より約30年間の「萬日記」、当時の「屋敷見取り図」その他貴重な資料が保存されています。
 河内七左衛門は「御報恩の為、自力を以って相勤め、格別の御仕成御座無候」と古い記録にあります。
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寺嶋忠三郎誕生の地
    市指定文化財・熊毛
寺嶋忠三郎誕生の地    寺嶋忠三郎は明治維新の志士でここより西50mの地で誕生しました。16才で松下村塾に入り吉田松陰先生の弟子となりました。
 元治元年(1864)7月禁門の変のとき來島又兵衛・久坂玄瑞らと共に皇居蛤御門にせまりはげしい戦いのすえ幕府の軍に敗れ久坂玄瑞と共に自刃したその時22才でした。
 兄寺嶋秋介は慶応3年(1868)長州・薩摩連合軍(新政府軍)の副参謀として江戸に向い江戸城のあけわたしをうけました。
 兄弟共に全力をつくして明治維新に大きな貢献をしました。
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高水村塾跡及び楽学の碑
    市指定文化財・熊毛
高水村塾跡及び楽学の碑    明治31年(1898)4月10日熊毛町に創立された高水村塾の発祥の地で、高水村塾は大正9年(1920)7月高水中学校と校名を改称しました。校名改称以前から、校舎の移設増築問題は起こっていましたが亀山の地に規模拡張の計画が発表されると、地元では後援会を組織して開掘、埋め立てに無償の労力奉仕をし、移転敷地が整備されました。
 「楽学」の碑は、大正11年(1922)3月伊東法住中学校長の親筆により前庭に建立されました。これは村民の教育熱を象徴する記念のもので、高水村塾高水中学校卒業生はもちろん、この由来を知る地元町民は、教育熱心であった先達をしのび、この碑を誇りとしています。

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 ○機関紙「ふるさと かわら版
   平成18年7月号(No.14)p2~3「高水地区pdf
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清尾板碑
    市指定文化財・熊毛
清尾板碑     板碑とは石で造った卒塔婆の一種で、死者の供養のために建てられたものです。
 花崗岩製で、正面に阿弥陀三尊を表す梵字(中央「阿弥陀」、右側「観音」、左側「勢至」)が刻まれており、また正平10年(1355)乙末2月甘日沙弥道念敬白の紀年銘がみられます。
 正平とは南朝の年号で、当時南朝側であった大内弘世は、防長を統一後に北朝側となることから、当時を偲ぶ資料のひとつといえます。山口県下に存在する板碑の多くは北朝年号であり、非常に貴重なものです。
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徳修館
    県指定文化財・熊毛
徳修館    三丘領主宍戸氏第8代宍戸就年公が文化6年(1809)に創建した学校で、文学や武術を学ぶ士民教育の場であった。多くの藩士子弟を教育しました。
 現在の建物は、弘化3年(1846)第10代宍戸元礼が家老末兼佐織に命じて萩の明倫館に模して同館の本堂(聖廟)として新築したもので、木造平屋、入母屋造りの建物で、玄関、広間、拝堂、および孔子とその弟子である四聖(顔回、子思、曾子、孟子)を祀る聖廟など6つの部屋からなります。江戸時代の郷校実状を残した県内唯一の郷校遺構です。
 敷地内には、中華人民共和国山東省政府より寄贈された孔子の像が建立されています。

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 ○機関紙「ふるさと かわら版
   平成20年春号(No.22)p2~3「徳修館pdf
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安田宍戸記念碑(徳修館隣り)
    市指定文化財・熊毛
安田宍戸記念碑     宍戸親基は、幼名を孫四郎、後に美濃又備前と言い、安政2年(1855)29歳で三丘宍戸(毛利家一門筆頭、11300余石)11代領主として家督を継ぎました。
 親基は、萩藩加判役の要職にあって、元治元年(1864)の禁門の変には藩内の鎮静に務め、馬関戦争においては事態の収拾に活躍し、以来俗論の鎮撫に奔走しました。
 また、領内の巴政改革して緩急に備え、特に徳修館の経営に力を注ぎました。
 この碑は、大正4年(1915)親基に従四位が贈られたことを記念して、大正13年(1924)3月旧臣たちが建立したものです。

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○三丘見て歩き「宍戸家墓所」pdf
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弁慶穴古墳(徳修館隣り)
    熊毛 
弁慶穴古墳    6世紀後半~7世紀初期のもので、石室は片袖の横穴式で、石材は付近の花崗岩を使用しています。石室の排水溝は、側石を建てた部分と、素堀りの部分から造られています。副葬品の中には、県内では珍しい鉄器が出土しており、被葬者は、島田川中流を治めていた小地域の支配者とその家族が考えらます。(復元)
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周南市安田の糸あやつり人形芝居
    県指定文化財・熊毛
周南市安田の糸あやつり人形芝居    三丘領主・宍戸氏が毎月21日と定めた安田の市は諸国から商人が集まり栄えていました。
 この人形芝居は、江戸時代後期(文化・天保期)に、安田の市にきた阿波の松尾某という藍染商人が、商売のかたわら村人に浄瑠璃と人形芝居を教えたことに始まると伝えられます。
 その後、毎月行われるようになって安田独特の芸能となったが、明治以降は市が寂れ、円通院で行われる8月7日の和霊大明神祭に毎年奉納されるようになりました。
 この人形芝居は、浄瑠璃に合わせて、約50センチの大きさの人形を糸で操るもので、人形の首、両耳、両手首に付けた5本の糸を一人で操ります。楽器は三味線のほか、拍子木、太鼓、鉦を用います。

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○機関紙「ふるさと かわら版
  平成23年春号(No.34)「安田の糸あやつり人形」pdf
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高水神社夫婦岩
    市指定文化財・熊毛
高水神社夫婦岩    高水神社裏の清尾山の山頂にある2つの巨大な石。高さは共に8メートル以上に及びます。熊野権現をこの地に勧請した折の影向石と伝えられ、また大日如来として修験道では礼拝されたと伝えられます。また領内で災害があったときには鳴動するとも伝えられます。

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 ○機関紙「ふるさと かわら版
   平成18年7月号(No.14)p2~3「高水地区pdf
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毛利元政の墓所
    市指定文化財・熊毛
毛利元政の墓所    毛利元政(元就7男・右田毛利の祖)は、慶長5年(1600)11月の知行配付によって、三丘地方五ケ村4200石の領主となりました。
 元政は三丘広末の地に居を構え、慶長14年(1609)4月29日51歳で亡くなりました。(法名 天徳性真大居士)。
 向って左側が元政の墓で、元政の子毛利元が建立したものです。
 また、右側は元の妻(宍戸元続の娘)の実母(元続の前妻)の墓で、織田信長の娘と伝えられています。
 元続夫人の石塔は県下に類例のない特異な石塔として有名です。
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毛利元就の歯廟
    市指定文化財・熊毛
毛利元就の歯廟    関ヶ原合戦後の領地配分によって慶長8年(1603)毛利元政(元就の7男)が三丘領主となって入部しました。
 その年が、父元就の33回忌と生母乃美の方(元就の側室)の3回忌にあたったため建てられた供養塔です。
 元政が肌身を離さなかった元就の遺歯が納められています。向って右が、元就公の歯廟で左が元就夫人乃美の方の宝篋印塔です。


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○三丘見て歩き「毛利元就公歯廟と乃美方の墓」pdf
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鶴の墓 (古本社)
    熊毛
鶴の墓    明治28年(1895)某狩猟者により銃弾を受け負傷した鶴が死んだので、松尾の瀬来孝蔵裏山に埋葬し「つるの墓」を立てました。大正10年(1921)市の小丘に改葬。
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亘理寒太句碑(古本社)
    熊毛
亘理寒太句碑   亘理 正(1895~1963)
 明治28年(1895)八代村魚切に生まれました。京都帝国大学経済学部を卒業し、小説「祟り」「賞品となる女」などを発表しました。
 八代に渡来の鶴に対する愛情には深いものがあり、これに打たれて全国各地の俳人が多く八代を訪れ、鶴にかかわる句を作りました。自身も「寒太」と号して俳句をよくし、「群鶴句会」を主宰、鶴の俳人として俳句三昧の生活を送りました。
 昭和30年(1955)11月25日に建てられた亘理寒太の句碑には「藪道を出て田の鶴と顔合はす」があります。
 尚、「ふるさとかわら版」平成22年冬号にて八代の句碑の詳細が掲載されています。
ふるさとかわら版抜粋ページへ
(抜粋ページpdf)
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杉山赤富士句碑
    熊毛
杉山赤富士句碑   「碧落に微塵湧いで鶴となる赤富士」と刻まれています。昭和30年(1955)ごろの作です。
 尚、「ふるさとかわら版」平成22年冬号にて八代の句碑の詳細が掲載されています。
ふるさとかわら版抜粋ページへ
(抜粋ページpdf)
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松野自得句碑
    熊毛
松野自得句碑    松野自得は、赤城山山麓にある最善寺(群馬県)が生家。後年竜滋寺(埼玉県)の住職。昭和初期より全国俳壇で活躍、俳句誌『さいかち』を主宰し弟子を育てました。旅好きで全国行脚の旅を続け、寒太の梅鶴庵にも滞在し鶴の句を詠んでいます。
 寒太に劣らず八代の鶴を愛した俳人で、この句はその代表句となります。ちょうどお昼時、鶴は家族一緒に籾を食べている、この平和な一家団欒を決して乱さないよう、そっと見守ろうという意味です。
 そこには鶴への限りない愛情と思いやりが表現されていると同時に、八代の土地と人々を敬う気持ちで挨拶をしているのです。
 尚、「ふるさとかわら版」平成22年冬号にて八代の句碑の詳細が掲載されています。
ふるさとかわら版抜粋ページへ
(抜粋ページpdf)
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水田のぶほ句碑
    熊毛
水田のぶほ句碑   「鶴戻り来るやしみじみ夕ごころ のぶほ」と刻まれています。
 尚、「ふるさとかわら版」平成22年冬号にて八代の句碑の詳細が掲載されています。
ふるさとかわら版抜粋ページへ
(抜粋ページpdf)
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瘞鶴地碑(えいかくちひ)
    熊毛
瘞鶴地碑    明治20年(1887)、村の掟を犯して、市尻の田で発砲し、鶴一羽を傷つけ、一羽を即死させた猟師がありました。この時、負傷した鶴はその後毎年この地に渡来していましたが、遂に明治28年、春がすぎてもシベリアへ帰ることができず、桃木峠に落ちてしまいました。
 これを見た近くの農民瀬来幸蔵さんは、あわれに思い、自宅に連れ帰り、50余日の間看護に努力しましたが、そのかいもなく死んでしまいましたので、裏山の林の中に家族同様手厚く葬り、小さな鶴の墓を自ら刻んで建て供養しました。
 大正10年(1921)、天然記念物に指定されたのを機会に現在地へ移し、此処を瘞鶴地として、その後、この地で死んだ鶴を埋葬し、旅で死んだ鶴の冥福を祈ってきました。
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つる塚
    熊毛
つる塚    文政3年(1820)、八代に住んでいた林此面(このも)という人が、田んぼで飛べなくなっていた病気のツルを保護しましたが、介護のかいなくこのツルは死んでしまいました。林此面は自宅の裏に「つる塚」を建ててこのツルを手厚く葬りました。
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高寺観音道標
    熊毛
高寺観音道標    旧山陽道呼坂の東入口の四辻にあった道標で「高寺安国寺十三丁」と刻まれています。道路拡張工事のため、現在は、曹洞宗万年山「安国寺」内にある高寺観音の境内に移されています。
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高水板碑
    熊毛
高水板碑    花崗岩の前面を加工し、その中心部に阿弥陀三尊の梵字を彫り込んだ自然石塔婆です。梵字キリーク・サ・サクの彫りは比較的浅いが、形は整っています。室町時代の建立としてよいでしょう。背面には薬師如来が半肉彫りで表されていますが、右側面に「大正7年1月 樋口 井上寅熊」、左側面に「今市組」との銘文があり、大正時代に彫られたものだと考えられます。
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 粟屋家墓所
    熊毛
栗屋家墓所    粟屋氏は寛永2年(1625)には大河内村に1400石を領していました。萩宗藩では、「一門」に準じる「寄組」の家柄で、幕末には堅田氏、国司氏に次ぐ4915石余を有していましたが、藩内抗争でいわゆる「俗論党」に属していたため、その後は不遇な立場におかれました。
 粟屋氏は享和元年(1801)、大河内に郷学「敬学堂」を設立しています。敬学堂は、現在の大河内幼稚園がある場所にあったといわれており、建物は残っていませんが、敬学堂の流れをくむ大河内小学校の校庭の入口に「敬学」の碑が建てられています。
 粟屋氏の菩提寺である常安寺に、初代から11代までの自然石で造られた墓が建っています。
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安田板碑
    熊毛
安田板碑    花崗岩の自然石の一面を平らに加工し、大日如来と大日法身真言を表す梵字を彫り込んだ自然石塔婆です。室町時代もそう下らない時期のものでしょう。
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 松原八幡宮樹林
    熊毛
松原八幡宮樹林     コジイ、ヤマモモ等の高木層、アベマキ、ヤブニッケイ等の亜高木層、ウラジロノキ、ヒサカキ等の低木層及びマルバベニシダ、シュンラン等の草本層で構成されており、極相に達しつつあります。この地域の原植生を示す貴重なものです。
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宍戸家仙竜寺墓所(初代~4代)
    熊毛
宍戸家仙竜寺墓所(初代~4代)    寛永2年(1625)一斉領地替えにより三丘領主となった宍戸家代々の墓です。墓所は2ヶ所にあり、5代から10代の墓は貞昌寺裏の丘にあります。






 この墓地のすぐ下に宍戸家家老末兼家歴代の墓が並んでいます。

宍戸家家老 末兼家の墓
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宍戸家貞昌寺墓所(5代~10代)
    熊毛
宍戸家貞昌寺墓所(5代~10代)    寛永2年(1625)一斉領地替えにより三丘領主となった宍戸家代々の墓です。墓所は2ヶ所にあり、初代から4代の墓は毛利元就公歯廟から約70m西の地にあります。
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宍戸親基の墓
    熊毛
宍戸親基の墓    宍戸家墓所とは別の場所(熊毛北高校の裏あたり)にも、宍戸家の墓があります。 墓石の氏名から、毛利氏一門筆頭宍戸氏当主で周防国三丘11代領主の宍戸親基の墓です。宍戸親基は晩年、郷校徳修館で教育活動に従事しました。
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